【特集記事】医師としての「生きること」と「治療」に対する考え方

公開日:2013年04月01日

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がんは年齢的な要素が大きく関係してくる病気です。若い人の発症率は低く、基本的には50歳を超えた頃からがんにかかる人が増えてきます。そしてがんで亡くなる人の率は年々増加し、最も長く生きた人が120歳でがんで亡くなったとすると、120歳のがん死亡率は100%という計算になります。

そのような視点で考えると、人生では誰でも、誕生、出産、老化、死亡という流れがあり、人はだれでも最終的には死を迎え、この流れはすべての人に当てはまるということになります。がんで死ぬということは、死に至る怖い病気にかかって亡くなるということではなく、多くの人が長生きをするようになった今日、避けられない人生の最後でがんをわずらう人が多くなったと考えることが出来ます。人は誰でも年老いて病気になり、最後には死を迎えますが、その時の死因の一つにがんがあると私は考えています。

がん治療の研究が進み、確実に治ることはないとしても、亡くなるまで長い期間生きることが可能になってきました。しかし、進行がんは根治するところまで至っていないので、化学療法を行っても、免疫療法を行っても死という結果は避けられるものではありません。それでは死刑を宣告されたようなものだと言われる方がいると思いますが、生き物である以上いつかは死の現実に向き合うことになるので、悲しいことかもしれませんが、人生の最終章としてもっとも大切な期間と考えることができます。

人に許されているのは、生まれてから死ぬまでの間を生きることなので、自分の生き方と照らし合わせてみて、医療とどのように係わっていくかを考えることは非常に大切なことだと思っています。あきらめてしまうということではなく、人間として最後の一時期を精一杯いきるのに何をするかを考えることが大切だと思います。人生はひとりひとり異なるように、死と向き合う最後の時間の過ごし方は、どのような生き方でもその人にとっては大切なものです。病気と闘って勝つことを狙うもの生き方であり、病気が治らなくても残された時間を大切に生きることも人生なのではないかと思います。

緩和医療をうまく利用しましょう。

緩和ケアの考え方の中には痛みや身体的な苦痛を抑えること以外にも、心理的、社会的な問題に関するケアも含まれていて、患者さんの生活の質全般を改善することが目的とされています。昔は病気を治すことしか考えず、痛みや苦しみを和らげることにはあまり十分な配慮はされませんでしたが、がんの進行が避けられないことを認めたうえで、痛みや苦しみを緩和することも大切と考えられるようになり、鎮痛剤を使用したり、吐き気や、息苦しさなどの苦痛を和らげる方法が普及してきています。
日本もようやく緩和医療に対して積極的に取り組む姿勢が見えてきました。病気が進んで苦痛が避けられなくなった時には、死によって最終的な苦しみを免れることも事実なので、命を長らえることだけが良いとは限らないと思います。がんと闘うという選択を取られた方でも、痛みの治療は残りの人生を少しでも楽に、また有意義に時間を過ごすために求めてもよいことだと思います。

免疫から受けるめぐみ

がんは急性の病気ではなく、長い経過があります。その間には元気な時と同じように、感染症にかかったり、がんとは関係ない症状に悩むことがあります。そのたびにがんの影響を恐れ気が落ち込むこともありますが、がんの進行はそう急激ではないので、本当の末期に至るまでは、身体を健康に保っていられる仕組みは殆どがそのまま役割を担っています。
我々は毎日無数の病原体に接触しているのですが、病気にならず健康ですごせるのは免疫のシステムが働くからで、切り傷なども同じように、何もしなくて細胞が再生し確実に治癒します。こういった免疫や細胞再生の仕組みは、元気な時と同じように、何の努力をしなくても私たちの体を外敵から守っています。がんが進行していても、死がまじかになる前に、多くの人には残された時間があるのががんの特徴であるともいえます。

酒蔵の人の出会いが僕の考え方を変えました。

今から30年くらい昔の話になりますが、北関東で日本一のお酒を造ることに一念発起した人がいました。彼がまず考えたことは、日本一のお酒を造るためには、利き酒日本一になることが必要と考え、蓄膿症を治す手術を受け嗅覚を確かなものとすることから始まりました。その後努力の甲斐あって、7銘柄の内4銘柄を当てて、とうとう利き酒コンクールで日本一になりました。

本格的な酒造りに取り組むにあたり、彼はまず原料になるお米にこだわりました。他の人が作っているお米では納得できずに山田錦の種を仕入れて自分の田んぼで作り始めたのです。水も非常に大切な要素で、埼玉県の奥地から自分の目指すお酒に合う水を見つけ出して仕入れることにしました。酒造りには通例コメの粒を削って使用しますが、普通の酒造りでは4割削って6割残すところを、割合を変えて6割削って4割残すという大胆な方法にかえました。
当時の機械ではお米がつぶれてしまうので、精米は厳寒の深夜で冷気の中で米をけずり、通常の醸造では2週間程度でお酒が出来ますが、タンクの外に氷を積んで温度を下げて醸造し、酒が出来るまで通常の約2倍の1ヶ月まで引き延ばす方法を取りました。

お酒と言えば東北や新潟などが有名で、栃木のお酒はブランドにならなかったのですが、すべての工程に様々な工夫を加えながら自分なりのオリジナリティを追及し、とうとう日本地酒コンクールで金賞を獲得することが出来ました。その後評判は急激に上がり、東京の酒通の集まる権威ある会で高い評価を受け、一躍有名ブランドとして認められることになりました。この会で高い評価を受けると、東京などでの販売では一升あたり1万円の値付けがその数倍になるなど、大きな成果を人生の絶頂にいた気分だったに違いありません。

ところが… ここでドラマがあるのです。品評会後に余裕もできたところで彼は健康診断を受けました。その時に胃がん見つかってしまったのです。彼と私の出会いはその時でした。私が主治医で診ることになりました。発見された胃がんはすでに進行がんの状態でした。外科に回して手術をしてもらい。手術後の経過も順調でした。

主治医になってからは、お互いに信頼関係が出来、個人的にもお付き合いをするようになりました。ある日、彼がたまたま私の家に訪れたとき、本人から「自分の病気に関して教えてほしい」と言われました。自分なりに気づいていたようです。教えてほしいという感情は酒蔵を運営しているという責任感から来ているものでした。人様のお金も預かっている関係もあり、自に何か起きた時に備えておかなければいけないということを言われました。当時はまだがんの告知をすることは一般的でなかったので私も緊張しました。がんには早期がんといって、その段階で手術すればそのがんで命を落とすことはないのですが、残念ながらあなたのがんはそれではなかったというようなお話をしたと思います。

品評会で評価を受けてからというもの、人気はどんどん上がっていき、巨人軍の祝勝会で出されるようになったり、日本航空のファーストクラスの機内酒になったりしていて、安定して美味しさを提供し続けていました。その時期だけにこの告知は大きな転機を彼に与えてしまったようです。後でご家族の方から聞いたのですが、やはり本人の葛藤は大変だったそうです。しかし時間の経過とともに受け入れることができて、残された時間を酒蔵維持という使命に費やしたのです。

その後再発の時期を迎え、再手術後は今までの健康状態とは行かなくなったのですが、奥さんを社長に据え、弟さんを専務として迎えるなどして、酒造が継続するように努力されたとうかがっています。彼の残した言葉の中で、「40年生きる人も70年生きる人もその時になったら誰もが短い人生だったと感じるでしょうね」と言われたことを私は覚えています。一時も休まずに47歳という人生を駆け抜けた彼らしい言葉だったと今でも思い出します。

最初の手術から4年目でした。東北から酒造りに来ていた杜氏のチームが冬の酒造りを終え、満開の桜のころ故郷に帰った翌日、安心したのでしょうか。彼は静かに眠りにつきました。短い人生でしたが悔いのない人生だったと思います。私にとって彼の死は、桜の大木が満開のまま倒れたような気がして、大変に残念なことでしたが、彼は後にたくさんの種をまいて逝きました。大きな桜が倒れたあとは、きっとこの種が芽を出し、成長して、立派な花を咲かせることになるでしょうと、こんな感慨にふけったことを覚えています。がんという病気も人生の一つの出来事であり、彼にとってほんとに残念だったかもしれませんが、彼の生き方はいまでも多くの人の心の中に生きています。

取材にご協力いただいたドクター

独立行政法人労働者健康福祉機構 秋田労災病院 中澤 堅次 先生

NPO法人医療制度研究会理事長

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